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'09 Jul. 22 12:34 AM

幻のフライトナース

ご存知の方はほとんどいないでしょう。
ネットで調べてもわからないわけです。

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東京オリンピックに沸く日本には戦後復興の勢いが町中にあふれていたことでしょう。
その頃はまだ私は生を受けてはおらず、資料でのみの知識になります。
そんな頃、自衛隊ではC-130輸送機を病人搬送にも使用する計画があったそうです。

750px-Lockheed_C-130_Hercules.jpg


航空機に詳しい方なら、C-130と聞くと、懐かしいと思うでしょう。
私も一度だけ、乗らせていただいた記憶があります。まだ小学生になったかそこらで、
墜落してしまった場合、個人識別のために、プレートのついたネックレスをするんだといわれ、
それを首にかけられたときに、微妙な感覚になった記憶があります。
その輸送機を病人搬送、つまり今で言うドクターヘリ的な使用を考えていたようです。
その大役に抜擢されたのが2名。30を超えた、日赤病院での看護経験のあるベテランと、
まだ20を超え、看護学校を出たばかりの新人。二人には大きな違いがありました。
英語能力です。多少の英語ができたその新人は、各省庁への報告書を書くために、
台湾や、フィリピンにも派遣され、目の前をオリンピックの聖火が通るのにも目をくれず、
マラソンで円谷選手がスタジアムに入ってきて抜かれてしまうのも、その瞬間だけ見た記憶が
ある程度に大忙しに働いて、その大役を果たそうとしたそうです。

tuburaya.jpg

円谷選手は責任を感じ、心身共に疲労がたまり入院。そのときに、
その若いフライトナースの病院に来て、そして、あの時代特有の感覚からか、
自殺という悲劇的な最後を迎えます。

tumuraya1.jpg


フライトナースの計画は、結局C-130の搭乗口に、担架(ストレッチャー)が
入らず、それを大きくするには莫大な予算がかかるということで、頓挫。
ヘリコプターには女性は危険ということで、男性看護師の教育係となり、
結局、日本では二人だけが経験するのみで、フライトナースという職業は
歴史の幕を閉じることとなったそうです。

そんな貴重な経験をした女性が、自分の母親であることに
やはり私は誇りを感じますし、
それと同時に、そんな箱入りのお嬢様をものにした父親を、
たいしたものだと感じました。

先日初めて、父、母、兄が来店。
4人だけで飲むという機会はこれが初めてで、今後そうは作れない時間でしょう。
ただただうれしかったです。

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